2010年08月02日
RODENBACH CLASSIC
昨日のウハウハ〜♪夏祭り
お越しいただいた皆様、ご協力いただいたスタッフの皆様、本当にありがとうございました。
とても楽しい祭になりました。
写真や報告はまた改めてしたいと思います。
祭の最中に、XX Bitter樽生が終わってしまい、続いて開栓したのが
九州初登場、夏の赤シリーズ復活!
ローデンバッハ・クラシック
RODENBACH CLASSIC

ベルギーのフランダース地方西部で造られる伝統のレッド・ビールの代表格。
レッド・ビール独特の軽やかでフルーティーな酸味と深いコクのある味わい。
オーク樽で2年以上熟成させたビールを若ビールとほどよくブレンドした、口当たり良く飲みやすいビール。
小西酒造HPより。
ボトルほどの酸味が無く、「ノドを潤すために飲むのに最適」と書かれていたのですが
妙に納得。
昨日のような暑い日には最適でしたね〜★
スッキリしていて、非常に飲み易いレッドエールです。
レッドビールの醸造所の間では、この「ローデンバッハのレッドビールがお手本にされている」とも言われています。
ブログ上で、このビールのレビューをされている方の中で面白い記事を見つけたので紹介したいと思います
ブルワリーズゴーゴー ~ Let's enjoy the beer ~さんのブログより抜粋
ローデンバッハ・クラシック(Rodenbach Classic)
あぁ偉大なりフランダース・レッドエール。今のところ私の中では唯一無二の存在「ローデンバッハ・クラシック」。
複雑で芸術的とも言えるフルーティな酸味を持ち、グラスの中で液体ルビーの如く妖しく光るこのビールは、
ある時は果実ジュースのようであり、またある時は赤ワインのようである。
しかしその実は紛れもなくビールなのだ!この至高のビールは、1年以上オーク樽で寝かせた熟成ビールと何週間か寝かせた若ビールをブレンドして造られるという。。
もう!何してんだよ!ベルギー人は!!
最後の一行がツボでした(笑)

一族について
ローデンバッハ一族は18世紀中頃には、ルセラーレ(Roeselare)の村に定住していましたが、一家のルーツはアンデルナッハ・アム・ライン(Andernach am Rhein)の村にあります。フェルディナン・ローデンバッハ(Ferdinand Rodenbach、1714-1783)は医者でありオーストリア軍の軍人でもありました。35歳の時にフェルディナンは軍を離れ、彼の妻と4人の子供を連れてルセラーレに住みつきました。
その後何年も経てローデンバッハ家はその地方の最も重要で影響力のある一族の ひとつになっていましたし、さらに力を増すにつれてベルギーにおけるそのような一族になっていきました。ローデンバッハ一族の何人かは有名な政治家や、医者や先生や芸術家でありました。
その中には、目が不自由でしたが芸術を愛し国会議員だったアレクサンダー・ローデンバッハ(Alexander Rodenbach、1786-1869)がいます。この人物が1821年以後の醸造所のトップであり、ベルギー独立闘争の熱心な活動家のひとりでした。レオポルド1世(Leopold I)が最初のベルギー国王として宣誓ののちバルコニーに現れた時、国王の横に立っていたのがまさにアレクサンダー・ローデンバッハその人でした。それは彼が国政において演じた役割の影響力の大きさを、はっきりと示していました。
コンスタンティン・ローデンバッハ(Constantijn Rodenbach、1791-1846)は一族のもうひとりの影響力のある人物でした。職業が医者で教師で政治家で領事であったことに加えて、彼はナポレオン軍のロシア遠征にも参加し、ベルギー国歌「ブラバンソン」の最初の原句の共著者でもありました。
コンスタンティンの孫のジョルジュ・ローデンバッハ(Georges Rodenbach、1855-1898)はその文学的才能で有名となり、彼の傑作である「死都ブルージュ」(Bruges la Morte、1892)は世界的に名声を博して100年後には映画化されたほどでした。ローデンバッハ醸造所の歴史は、アレクサンダー(Alexander)、コンスタンティン(Constantijn)、フェルディナンド(Ferdinand)、ペドロ(Pedro)の4人の兄弟が、ある小さな地ビール醸造所に投資をした1821年に始まります。1831年、ペドロが妻のレジナ・ワウテルス(Regina Wauters)と一緒に醸造所の経営を全面的に握りました。レジナ・ワウテルスは夫が軍隊にいて家を離れている間、醸造所を切り盛りしていたのでした。彼らの息子であるエドワルト・ローデンバッハ(Edward Rodenbach、1823-1902)は、彼自身が醸造所のリーダーの地位を受け継ぐに至るまで、母親を助けて日々の醸造所操業に携わっていました。彼の推進力のもとで醸造所は近代化されさらに拡張してゆきました。彼は新しい醸造場を建て、ラガービールの設備や発酵設備を拡張し、製麦所も加えたのでした。
彼の息子のエージェーン(Eugene、1850-1889)は1878年から醸造所の主となりましたが、英国南部で「ポータースタイル」のビール造りを学び、ローデンバッハ醸造所のブレンド技術や木製の樽で熟成させる技術を磨きました。彼は、ローデンバッハ・ビールの開発者と広く称されています。
エージェーンが39歳で亡くなった時、後継者が誰もいませんでした。彼の死後、醸造所の経営を引き継ぐための会社が設立されました。5代にわたって経営陣が続いた後ローデンバッハ醸造所は、1998年にパーム醸造所グループ(Palm Breweries)によって引き継がれることになりました。パームは、このユニークで文化的見地からも大切なビールスタイルを、間違いなく残していくと言っています。
小西酒造HPより
お越しいただいた皆様、ご協力いただいたスタッフの皆様、本当にありがとうございました。
とても楽しい祭になりました。
写真や報告はまた改めてしたいと思います。
祭の最中に、XX Bitter樽生が終わってしまい、続いて開栓したのが
九州初登場、夏の赤シリーズ復活!
ローデンバッハ・クラシック
RODENBACH CLASSIC

ベルギーのフランダース地方西部で造られる伝統のレッド・ビールの代表格。
レッド・ビール独特の軽やかでフルーティーな酸味と深いコクのある味わい。
オーク樽で2年以上熟成させたビールを若ビールとほどよくブレンドした、口当たり良く飲みやすいビール。
小西酒造HPより。
ボトルほどの酸味が無く、「ノドを潤すために飲むのに最適」と書かれていたのですが
妙に納得。
昨日のような暑い日には最適でしたね〜★
スッキリしていて、非常に飲み易いレッドエールです。
レッドビールの醸造所の間では、この「ローデンバッハのレッドビールがお手本にされている」とも言われています。
ブログ上で、このビールのレビューをされている方の中で面白い記事を見つけたので紹介したいと思います
ブルワリーズゴーゴー ~ Let's enjoy the beer ~さんのブログより抜粋
ローデンバッハ・クラシック(Rodenbach Classic)
あぁ偉大なりフランダース・レッドエール。今のところ私の中では唯一無二の存在「ローデンバッハ・クラシック」。
複雑で芸術的とも言えるフルーティな酸味を持ち、グラスの中で液体ルビーの如く妖しく光るこのビールは、
ある時は果実ジュースのようであり、またある時は赤ワインのようである。
しかしその実は紛れもなくビールなのだ!この至高のビールは、1年以上オーク樽で寝かせた熟成ビールと何週間か寝かせた若ビールをブレンドして造られるという。。
もう!何してんだよ!ベルギー人は!!
最後の一行がツボでした(笑)

一族について

その後何年も経てローデンバッハ家はその地方の最も重要で影響力のある一族の ひとつになっていましたし、さらに力を増すにつれてベルギーにおけるそのような一族になっていきました。ローデンバッハ一族の何人かは有名な政治家や、医者や先生や芸術家でありました。
その中には、目が不自由でしたが芸術を愛し国会議員だったアレクサンダー・ローデンバッハ(Alexander Rodenbach、1786-1869)がいます。この人物が1821年以後の醸造所のトップであり、ベルギー独立闘争の熱心な活動家のひとりでした。レオポルド1世(Leopold I)が最初のベルギー国王として宣誓ののちバルコニーに現れた時、国王の横に立っていたのがまさにアレクサンダー・ローデンバッハその人でした。それは彼が国政において演じた役割の影響力の大きさを、はっきりと示していました。
コンスタンティン・ローデンバッハ(Constantijn Rodenbach、1791-1846)は一族のもうひとりの影響力のある人物でした。職業が医者で教師で政治家で領事であったことに加えて、彼はナポレオン軍のロシア遠征にも参加し、ベルギー国歌「ブラバンソン」の最初の原句の共著者でもありました。
コンスタンティンの孫のジョルジュ・ローデンバッハ(Georges Rodenbach、1855-1898)はその文学的才能で有名となり、彼の傑作である「死都ブルージュ」(Bruges la Morte、1892)は世界的に名声を博して100年後には映画化されたほどでした。ローデンバッハ醸造所の歴史は、アレクサンダー(Alexander)、コンスタンティン(Constantijn)、フェルディナンド(Ferdinand)、ペドロ(Pedro)の4人の兄弟が、ある小さな地ビール醸造所に投資をした1821年に始まります。1831年、ペドロが妻のレジナ・ワウテルス(Regina Wauters)と一緒に醸造所の経営を全面的に握りました。レジナ・ワウテルスは夫が軍隊にいて家を離れている間、醸造所を切り盛りしていたのでした。彼らの息子であるエドワルト・ローデンバッハ(Edward Rodenbach、1823-1902)は、彼自身が醸造所のリーダーの地位を受け継ぐに至るまで、母親を助けて日々の醸造所操業に携わっていました。彼の推進力のもとで醸造所は近代化されさらに拡張してゆきました。彼は新しい醸造場を建て、ラガービールの設備や発酵設備を拡張し、製麦所も加えたのでした。
彼の息子のエージェーン(Eugene、1850-1889)は1878年から醸造所の主となりましたが、英国南部で「ポータースタイル」のビール造りを学び、ローデンバッハ醸造所のブレンド技術や木製の樽で熟成させる技術を磨きました。彼は、ローデンバッハ・ビールの開発者と広く称されています。
エージェーンが39歳で亡くなった時、後継者が誰もいませんでした。彼の死後、醸造所の経営を引き継ぐための会社が設立されました。5代にわたって経営陣が続いた後ローデンバッハ醸造所は、1998年にパーム醸造所グループ(Palm Breweries)によって引き継がれることになりました。パームは、このユニークで文化的見地からも大切なビールスタイルを、間違いなく残していくと言っています。
小西酒造HPより
Posted by BAKUSHUHONPO at 12:41│Comments(0)
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